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ちょっと寝すぎ。
ちょっとどころではないですね。
ところでいましがた、とても楽しみな情報が舞い込んできました。
音楽の先生と音楽療法士と、あと心理関係の人がデイケアにやってくるそうです。
来られるようになったいきさつは、11月22日(月)に精神保健福祉大会があって、そのイベントに乗っかってコーラス&僕のピアノ演奏を披露する予定になっていて、その指導に当たってくれる先生をO本さんが探していて、アポを取るのに成功したという次第です。
たぶん主に音楽療法士の方がコーラスの指導をすると思われます。
そのおこぼれで僕もピアノレッスンしてもらえないかなと様子をうかがっているところです。
なにしろ小学4年生の時からピアノレッスンを受けていないのですから、期待は高まります。
しかしレッスンを受ける僕の方にかなり問題があるのも事実です。
なにしろ頑固。
手首を柔らかくして肘は固定して、なんて言われても僕は鼻っからできないと思い込んでいますし、その指使いは間違っていますよと言われても多分修正に応じないと思います。
そして僕はリズム感が全くないので、そこのところを指摘されたら対応できません。
いったいどんな弾き方してるんや!と想像される方もおられるでしょう。
とにかく自己流、これが普通と思って疑問を感じながらやってます。
こんな僕でもあきらめずに指導してくださる先生というのが果たしてこの世に存在するのかどうか。
存在しないに千円、・・・って賭けてどうするんや。
存在しない方に賭けるということは、存在してほしいという心の現れ。
「あなた、そんな演奏で人前で演奏するおつもり?!」なんて言われたらどうしよう。
小心だなぁと笑ってください。
それでも人前で演奏するのが夢なのですから、その夢を実現に近付けてくれるような先生に出会えればいいのになと思っているのです。
ところで最近時々立ち寄るブログに、発表会効果、というものがあるということを書いていて、そういうものは多分あるだろうなとぼんやりと想像していたのですが、やはりあるのですね。
ここはバシバシ人前で演奏して、ピアノの音色に磨きをかけたいところです。
そのためにはこの頑固な性格を柔らかくして、人の指摘に応じる姿勢で頑張らねばと思います。
さあ今から練習しよう。
駄句、
◆ 頑固者人の指摘を受け入れず
ちょっと目的がないと起きるのが遅くなる。
あんまりたっぷり時間があると困るのでこれでよいのです。
時間の否定は存在の否定。
だいぶ自分の存在を肯定的にとらえるようになってきたのですが、完全に肯定はできません。
でも完全に自分を肯定しているのって逆に怖いですよね。
突然何を言い出すんだ、ということなんですが、昨日お邪魔したブログの記事の中に「自分を肯定していない人間にピアノなんて弾けるわけがない(多分こんな内容)」ということが書かれていて、なるほどと思った次第なのです。
自分の存在を肯定的にとらえていないところもあれば人生について真剣に考えたこともない自分にとって、これはある意味衝撃的でした。
しかし逆に考えてみると、ピアノを演奏して人前で弾くという目標を持つことによって、自分を肯定する作業をしていることになるのではないか、と。
それならば僕にとって非常に良いリハビリをしているわけで、これはますます頑張らねばならないという気持ちになってくるわけです。
こういう風に気持ちが変わるということ自体、結構自分を肯定的にとらえられているんじゃないかと考えるわけです。
ピンとこないけど。
あともうひとつ印象的なことをそのブログには書いていて、「ピアノを人前で弾くには、私を見て!ってぐらいの意識が必要(多分こんなところ)」。
それはだいぶクリアしている部分があるのです。
人前で自分をさらしてしゃべるということは照れるんですが、こうやってほとんど毎日ブログをアップしているということは自己顕示欲が強い表れじゃないのかと思う次第なのです。
ホームページまで作っているし。
人との交流も求めているということです。
ただ、生の人間との交流となると何をしゃべってよいのやら、頓珍漢になってしまうようで、腰が引けている次第です。
デイケアという仮想社会の中ではやっていけるのですが、やはり一般社会という大海に出るには少々精神の脆弱性があるかと思うのですが、ピアノのため!と思って人との交流を恐れずにやっていこうとするも、なにぶん起きる時間が遅すぎて、それとだいぶ社会と乖離しているし、なかなかこういう機会はないようですね。
でも機会があれば、ピアノのため!と自分をさらけ出す練習をするのもよいですね。
へたくそなピアノだけど、僕の人生はピアノ!と思うことで開けてくるものもたくさんあるんじゃないかなぁ・・・。
駄句、
◆ へたくそなピアノ人生カタツムリ
今日は水曜日なので研修生がピアノ演奏の聴衆を務めてくれる日。
今日で研修は最後だそうだ。
いままで来ていた研修生は医療大学の学生さんだったのだが、これからも他のところから研修生は来るそうだ。
医療大学の学生さんは引率している先生が僕のピアノをたいそう気に入ってくださり、学生さんにも「ききまえ、ききまえ」と勧めてくださっていたのです。
だからこれから他のところの研修生が来ても僕のピアノを聴いてくれるシチュエーションになるかどうかは分からない。
とにかく聴いてもらうのはとてもいい練習になっているのでこれからも続けたいところなのだが、相手がいる話なのでどうなるかは分からない。
しかしピアノ演奏を聴いてもらうというのは、とても能動的なことなのである、と書いてあるブログを読んで、そうなんだぁといまさら感服した次第なんです。
そりゃそうですよね、能動的行為の極みですよね。
そういうことに気づかずにピアノ演奏を聴いてもらおうとしている僕は鈍感というか事が分かっていないというか、にぶいですね。
そのブログには人前でしゃべれないような人はピアノは弾けないとも書いてありまして、僕はしゃべるのが苦手なので、こりゃ失格だと思い至るも、それでもやるんだという強い能動的意思が湧き出でてくるのです。
果たして僕のような人間が人前で弾くことは許されることなのでしょうか?
こんな風に弱気なことを言っていること自体失格のような気もするのです。
ちょっとこれから自分の心に革命を起こさなければいけないのでは、・・・しかしそんなに簡単に革命は起こりません。
いまの自分のままでもとにかくやるという意志を強く持って、目的を遂行するのみです。
失敗してもいいじゃないですか・・・、と、こういうことを言っているからだめなんだよと言われそうです。
今日はとてもうれしいことがありました。
句会があって、自己最高記録の7点句をとりました~(祝)!
その句、
◆ 風見つけ風にこたえる風車
しかし、風車は春の季語なんですよね。
いいんです、それでも。
僕が投句したあとの2句は、
◆ 恐るるに足らず青々栗の棘 1点
◆ 青田から泥の足跡ひとり分 0点
しかし今日は期待していなかったのですが、それが功を奏した格好になりました。
僕が頂いた句は3句で、
◆ 六畳に爺婆猫の大昼寝 3点 I崎さん
◆ 短冊を代えて風鈴吊しけり 3点 N崎さん
◆ 盆墓参亡き母の前侘び言葉 1点 Y崎さん
今日は祝杯をあげたいところなのですが、今日は飲まない日。
例外あってもいいですよね。
駄句、
◆ 七点句祝杯あげし生ビール
今日はAM12時半起き。
早い目覚めである。
昨日iPhoneでのだめカンタービレ25巻の発売日を調べてみた。
もうそろそろだろうと思っていたら、6月20日ごろ発売予定とのこと、とあった。
それで今日は宮脇書店に寄った。
そしたらどうもないようである。
店員さんに確認したら、8月までの発刊予定も調べてみたのですが25巻の発刊予定はないようです、とのこと。
もしかしたら第2子を授かったのでしょうか?
あとでもうちょっとネットで調べてみよう。
のだめカンタービレと言えば1巻から23巻まで味わいながら読んでいて、昨日やっと読み終えたところである。
のだめカンタービレを読まなければいけないと思うと、他の本が読めない状態になっていた。
そろそろ本でも読まないと馬鹿になってしまう。
しかしのだめも飽きた。
なにしろ7回も読み返しているのだから。
これで飽きなければのだめ中毒である。
しかし7回も読まないと飽きないあたりだいぶ重症だったように思う。
もう読むことはないだろう。
音楽と言えば最近熱くなっているピアノの練習。
ちょっぴりショックなことがあった。
先週1週間ずっとデイケアのピアノで練習していた。
そして週末の土曜日に家のピアノで弾いてみたところ、少々タッチの感覚が違うだけでもうダメになってしまう。
日曜日にはもう回復していたのだが、演奏会のときには家のピアノを持ち込みたいぐらいである。
とにかくちょっと鍵盤のレスポンスが変わっただけでえらく演奏に影響が出る。
ということなので人前で演奏する前日には、ホールのピアノで練習することは絶対条件なのです。
前日に練習するだけで果たして自分の指がなじむかどうかも分からないぐらいなのですから心配です。
その演奏会、あなぶき小ホールでの演奏会の件ですが、どうも僕だけが舞台に出るというわけではないらしく、カラオケやらなんやら他にも出演する人がいるらしく、それを含めて30分程度しか時間がないようなのです。
僕は30分ぐらいの演奏を想定していたわけですが、これだと2曲か3曲ぐらいしか披露できないようです。
一生懸命7曲練習している自分にとって見れば、少々不満があるが他にも出演者がいるということなら仕方がない。
ただ、東讃の当事者交流会のほうは7曲弾くことができると思われるので、練習は続けていこうと思う。
ちょっとポテンシャルが落ちました。
選挙結果は新聞で報じていた通りの結果になりましたね。
パウル君の予想も当たってスペイン優勝しましたね。
大相撲の客の入りも予想どおり、満員御礼はならず。
白鵬の力強い上手投げよかったです。
バルトのきめ倒し強烈です。
普通に見たかったです。
はぁ・・・。
駄句、
◆ ポテンシャルちょっと下がりて溜息す
今日は13時半起き。
今日はピアノを練習する時間がたっぷりあります。
昨日ツレが「よう飽きんとするなぁ~」、とつぶやくので確かに不思議だと思いました。
ツレが突然呟いてこの不思議感が突然湧き出たわけではなくこれは時々思っていました。
この疑問はクラシックの魅力に尽きると思います。
クラシックの曲で何回も練習するのは苦にならないですが、同じポップスの曲を何度もカラオケで歌うというのはできないんじゃないでしょうか。
ポリーニがつぶやいた言葉に、
ポピュラーミュージックに対して、「イマジネーションが貧弱だと思います。クラシックの方が聞いていて面白いのに、どうして若い人たちは好きでないのでしょうかね」と淡々とした口調で厳しい発言をしている。(ウィキペディアから)
同感です。
時々この曲いいなというようなポップスの曲も時々あるのですが、毎日聞くほどに深みがないように思います。
それがクラシックの曲となると、好きな曲だと毎晩聴いてたりするから不思議です。
これはどういうことに依拠することなのか?
作曲家の精神性の深さ、音楽理論の深さ、演奏テクニックの要求度、歴史のフィルター、などがいま思いつきましたが、もっといろいろ要因はあるように思います。
しかし長いクラシックの歴史の中で僕の好きな曲というのはかなり限られています。
僕が言うのもおこがましいですが、つまらんのもたくさんあります。
しかし好きな曲は極端に好きです。
僕が同じ曲を何度も弾くのはその曲の魅力の深さです。
しかし人それぞれ。
なんで繰り返し同じ曲を何度も練習しているんだといぶかしがる人もいることでしょう。
ピアノの音がとびっきり好きだというのもあります。
そして作曲家が生み出した、和声進行の妙。
そう言っている割には上達の具合が芳しくないのですが・・・。
でもとにかく今の僕には目標が生まれているのですからそれに向かって精進するのみ。
人前で演奏するということのハードルを今ただただ味わっている次第なのですが、演奏が成功したなら手放しで喜ぶでしょうし、成功しなくても練習した過程で得たものが必ずあるのではないかと思っているのです。
ほんまにそんなもんあるんかいな?と問いたくなる時もありますが、まあ何もなくてもいいんです。
挑戦し続けます、とにかく!
駄句、
◆ 志挑戦するや青田風
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